2022年度 第3回「脱軍備・平和基礎講座」報告

2022.08.03

「被爆者の証言」証言者:丸田和男(長崎平和推進協会 被爆体験語り部)

2022年7月23日(土)14時から16時まで丸田和男さん(長崎平和推進協会 被爆体験語り部)による2022年度第3回脱軍備・平和基礎講座「被爆者の証言」がオンラインで実施された。講座には合計19名(通し参加者9名、単発参加者2名、スタッフ8名)が参加した。

身をもって被爆を体験した丸田さんの話は細部まで生々しく非常に強烈な印象が残った。

原爆投下当時、丸田さんは長崎市に住む中学1年生で、8月9日は英語の期末テストを受けた。試験が終わり、自宅に戻って2階に上がり、上半身裸になって汗を拭いていたところ、米軍機と思われる轟音が聞こえ、空がピカッと光った。身構えた瞬間、爆風に吹き飛ばされて気を失った。

意識を取り戻したときには瓦礫の中に埋もれていた。背中に柱や梁が折り重なり、身動きできない。そのうち、周りから泣き叫ぶ女性の声が聞こえてきた。丸田さんも「助けて!」と叫んだ。だが、誰も助けに来てくれない。途方に暮れていたところ、「火事だ!」という声が聞こえた。このままでは焼け死んでしまうと思い、死に物狂いで瓦礫の山から抜け出した。

その後、叔父さんと出会い、丸田さんのお母さんが原爆で即死したことを聞かされ、2日後にお母さんの遺体が見つかった。にもかかわらず、まったく悲しくなかったそうだ。そのくらい、目の前のこと、自分のことでいっぱいいっぱいだったのだろう。

8月11日、叔父さんと諫早へ行くことになった。長崎駅は木っ端微塵となり、列車に乗るには隣町の駅まで歩いていく必要があった。その途中に通った爆心地付近の風景がいまも忘れられないという。爆心地には男女の区別もつかない死体がゴロゴロと転がっていた。

諫早では、病院へ連れていかれた。丸田さんは上半身裸のまま黒い雨を浴びたこともあり、翌日から血の小便が出るようになっていたからだ。医者は丸田さんの症状を赤痢と診断した。当時は米軍でさえ放射能の健康に対する悪影響を正確に認識しておらず、医者が誤診しても不思議ではなかった。そのため、爆心地への立ち入り禁止措置もとられず、後に多くの人が放射能に汚染された地域に入って被爆した。

ところが、医者の誤診は丸田さんにとっては幸いだった。赤痢と診断された丸田さんは隔離病棟に入れられ、そこで十分な治療を受けることができたからだ。もし長崎市に戻っていたら、医者も薬も不足しており、まともな治療を受けることはできなかったであろう。

丸田さんは1か月後に退院した。戦争はすでに終わっていた。島原の叔母の家で2か月静養し、原爆投下から3か月後に長崎市の中学へ戻った。しかし、丸田さんが通っていた中学校はすでになかった。校舎は全壊し、そこに残っていた約50名の先生と生徒のほとんどが死亡したという。そのため、近くの中学を間借りして授業を受けた。しかし、中学1年生の3分の1以上、114人の級友が二度と戻って来なかった。

話の最後に丸田さんは長崎平和推進協会の企画でインスタグラムに発信した自身のメッセージを読み上げた。
「長崎の被爆者の声を聞いてください。いま、ウクライナでは戦争で何も罪のない人達の多くの命が奪われています。しかも、核の威嚇が公然と行なわれ、核使用の脅威が現実のものとなっています。21世紀の今日、このような蛮行が許されてよいものでしょうか。かつて、フランシスコ・ローマ教皇が「人類は広島・長崎から何も学んでいない」といった言葉が改めて思い出されます。人間とはそんなに愚かなものでしょうか。みんなで声を上げましょう。(以下、略)」

まったくその通りである。私たちは広島・長崎の悲劇から学び続け、核使用の威嚇や恫喝に対しては声を大にして異議を唱えなければならない。

(文責:渡辺洋介)