【連載「被爆地の一角から」96】  「大統領の広島演説を考える」土山秀夫

公開日:2017.07.15

 オバマ米大統領の広島における演説をテレビで聞き、内容の英文および日本語訳を新聞で読んだ。
 人類史的な観点から戦争と平和について語り、科学や宗教の果たす役割、罪のない人々の死への追悼、殺りくを超えた和解への道、そして広島や長崎が核戦争の夜明けでなく、道徳の目覚めの始まりであるべきだと説いた格調の高い文章であった。これが被爆地以外で話されたか、またはオバマ氏個人の理念や哲学を披瀝する場であったとしたら、筆者はためらうことなく高い評価を下したに違いない。だが事実はそうでなく、核超大国である米国の現職の大統領が初めて被爆地広島を訪れ、被爆者代表たちの前で行った特別な演説なのである。
 オバマ大統領がG7に出席する前から、新聞やテレビは連日のように氏が何を語るか、また何を語って欲しいか、と関心をそそるように報道を重ねていた。筆者も朝日、毎日、読売、共同、長崎ほかの新聞社やテレビ各局の取材に追われたものだった。こうなると無意識のうちに、演説の内容にある種の期待を抱きたくなったとしても不思議はない。
 しかしその点は残念ながら期待外れに終わった、というのが筆者の率直な感想である。他の土地ではなく、“被爆地”で語るにしては核兵器への言及が少ない上に、余りに抽象的な文言に終始していたからだ。確かに09年のプラハでの演説をなぞった表現はあるものの、あの時のように衝撃に近い「核兵器のない世界」を目指す情熱と新鮮な提案は影が薄くなっている。例えば今回、こういう文章が出てくる。「私たちのように核を保有する国々は、恐怖の論理から脱する勇気をもち、核なき世界を追い求めなければいけません。私の生きている間に、この目標は実現できないかもしれません。しかし、たゆまぬ努力によって、悲劇が起きる可能性は減らすことができます。私たちは核の根絶につながる道筋を示すことができます」。正しくその通りであって異論はない。ただその努力や道筋を妨げているのは、当の米国自身の消極性にあるという現実と矛盾しているのではないのか。筆者たちが最も知りたいのは、ではどうすれば米国の英断を引き出せるのかの一点にある。それほど現在の核兵器をめぐる核保有国と非核保有国の溝はふかいのだ。
 圧倒的多数の非核保有国の主張は、核の非人道性を認定し、核兵器を法律によって規制(非合法化)し、その上で核兵器禁止条約につなげようということでまとまっている。しかし核保有5か国は、非人道性についても明確に認めようとしないし、国連の作業部会さえボイコットしている。その先頭に立っているのが米国であり、米国が動かない限り、この閉塞状況は先ず打開されそうにない。しかも両グループ間の対立によって時間を空費している隙に、北朝鮮のように核兵器やミサイルの技術開発を着々と進める国家が現れてきているのだ。
 オバマ大統領の今回の広島訪問に際して、事前の被爆者への世論調査では圧倒的に歓迎する声が多かった。だがその内容を分析してみると、本心としては大統領に「原爆投下は誤りだったと言って欲しい」、或いはそれより少ないながら「原爆投下を謝罪すべきだ」と思う人たちが決して少なくなかった。しかしそのことを表に出せば、原爆投下正当論の根強い米国内の世論に配慮して、オバマ氏の被爆地訪問は先ずあり得ない。こうしたジレンマの末、被爆者は大統領への注文をグッと心の中で抑え、少しでも核廃絶への具体的な道筋を示してくれることを期待して、歓迎の意を表したに違いない。その意味で筆者が大統領の広島演説を期待外れと評したのも、これと共通した心情と言えよう。