【連載「いま語る」68】「人間の内面と向きあい平和を築く」

公開日:2017.04.14

 長崎に原爆が投下されたとき、私は母親のお腹の中にいました。私の家族は爆心地となった浦上から山で2つ3つ隔てられた場所に住んでいました。投下の3日後に、母は浦上の自分の実家へ行き、入市被爆をしました。母方の祖母と叔母2人、叔母の夫が原爆の直後に亡くなりました。叔母の1人は遺体も見つからなかったそうです。とくに祖母が全身大やけどをして終戦の日に息を引き取るまで大変苦しんだという話は、一回り年上の姉からようやく最近になって聞きました。原爆の13年後には母方の伯父の息子、つまりいとこが、17歳で原爆症により骨と皮だけになって亡くなっています。彼が亡くなる数日前に見舞いに行ったのですが、話す力もなく、かわいそうに思ったことを覚えています。子どもの頃は原爆が大変な出来事だったとは考えていましたが、平和の視点から関心を持つということはありませんでした。
 司祭となり福岡で奉仕していた私は、2002年に補佐司教として長崎に赴任することになりました。ちょうどその頃、憲法「9条の会」が立ち上がり、宗教界からの呼びかけ人となった私は原爆と平和について深く考えるようになっていきました。広島・長崎での核兵器使用の大義名分に、戦争を早く終わらせ、100万人の米兵を救った、というものがあります。私は、そうであったとしても、使用すれば万、十万単位の人間を殺せるとわかっている武器をあえて使うということを正当化できないと考えます。人間のすることではありません。また、広島と長崎で違う種類の核爆弾を使用したことや、投下後にアメリカが被爆者の被害調査を行ったことから、これは実験だったと考えています。
 近年、日本では北朝鮮や中国を脅威に感じ、核武装論すら出てきています。若い人ではそれを当然に思う人も出てきています。アメリカで核兵器先行不使用論が出てきても、日本の政府筋は否定に回っていると報道されています。被爆国であり憲法9条を持つ日本政府・国民は核兵器廃絶に向けて発言するだけでなく、率先して行動に移していかなければなりません。相手が兵器を持っているから自分も兵器を持たなければならないという考えが人類をおかしくしているのです。誰かがそれを断ち切らなければなりません。日本は憲法9条を持っているので、戦争を仕掛けない。非核三原則を持っているので、核兵器を持たない、作らない。こうした立場の日本がこの考えを断ち切る役割を果たすことで、世界に影響を与える地位に就くことができます。
 ローマ教皇ヨハネ二十三世は、冷戦のまっただ中の1963年に公布した『地上の平和』という回勅の中で、「軍備の均衡が平和の条件であるという理解を、真の平和は相互の信頼の上にしか構築できないという原則に置き換える必要があります」と言っています。正義、英知、人間の尊厳のために軍備競争を止め、軍備を縮小し、核兵器を禁止し、軍備を全廃しなければならないと言っています。現実的には難しいとは思いますが、私も核兵器だけでなく、全ての軍備を全廃しなければならないと考えています。軍隊を持たない中米のコスタリカでは、軍事費に費やされるお金を学費や医療費に使っていると聞きます。これこそが平和な社会です。相互の信頼に基づくという意味では北東アジア非核兵器地帯もこの考え方に基づいているといえます。さらに進めてEUのような北東アジア連合を作り、その理念の中で核兵器を使わない、というのが理想です。
 平和主義の宗教者は現実を知らないとしばしば非難されますが、人間が現実を作るのです。人間が武器を持つか持たないかを決めるのです。人間は相手が武器を持ったら自分も武器を持たなければならないと考えます。武器を取って身を守り、人を殺して支配しようとします。人のものを奪って所有しようとします。国の為政者が支配欲や所有欲を持つと、国と国との争いになります。宗教者はこういった暴力、支配欲、所有欲といった人間の内面の問題に関わっていくことができると思います。キリストやブッダも人を殺してはならない、と言っているのに、戦争では人を殺してもよいことになっています。むしろ多く殺すことが武勲であるとされています。戦争になるとモラルが逆になってしまいます。私たちは戦争を起こさないように欲求をコントロールしていかなければなりません。人間には説明のつかない暴力の欲求があると思います。その暴力を起こさせるきっかけを作らせないように、私たちは小さい頃からの教育、環境づくりも考えていかなければいけないと思っています。
(談。まとめ:荒井摂子、山口大輔)