【ピースデポ第17回総会記念講演会 抄録②】  
講演「日米関係と日本の核政策―歴史からの問い」(下)    西崎 文子(東京大学大学院総合文化研究科教授)

公開日:2017.07.18

敗戦による「リセット」を拒む
―被爆者の歴史認識

 なぜ私が戦前・戦後の連続性にこだわり、「敗戦」によって歴史を「リセット」することに危険を感じるのかというと、日本の戦後社会に、この「リセット」を非常に明確に拒否する人々がいたことを強調したいからです。それは、私が学生時代から関わってきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)と被爆者の人々です。
 根源には、日本が戦後、平和憲法を持ちながら被爆者をきわめて冷たくあしらってきたということがあります。占領下でのプレスコードはよく知られていますが、占領が終わった後も日本社会の主流、何より日本政府は、広島・長崎についてアメリカに抗議することはありませんでしたし、被爆者の戦後の生活について何か優しい言葉をかけたこともありません。被爆者は、一貫して差別の対象になり、政策的にも冷遇されてきました。
 さらに被爆者は1970年ぐらいまで、平和運動の中でも孤立してきたと言ってもよいと思います。当時の日本の平和運動は党派対立の中に巻き込まれてしまっていました。大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』に生々しく描かれていますけれども、被爆者はそのような平和運動の中で、やはり大切にされてこなかった。だから被爆者が「平和国家日本」とか「被爆国日本」という言葉に、どこか違和感を抱いていたのは当然だったのではないかと思います。

80年基本懇「被爆受忍論」への怒り

 そういった被爆者の感情が噴出するきっかけとなったのが、厚生大臣の私的諮問機関として作られた「原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)」が1980年12月11日に提出した「答申」でした。
 「答申」は被爆者対策の「基本理念」について次のように述べました。「今次の戦争による国民の犠牲はきわめて広範多岐にわたり、すべての国民が……犠牲を余儀なくされた」、「しかし、これらの犠牲の中で広島・長崎の原爆投下による被爆者の犠牲がきわめて特殊性が強いものであるということは、何人も否定しがたい」。その一方で、「答申」は次のようにも述べました。「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民が戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは国を挙げての戦争による『一般の犠牲』として……すべての国民がひとしく受忍しなければならないところであって……」。つまり、「基本懇」は、政治論としては国に責任があるとしても、法律論としては、国の統治行為・政治行為について責任を追及することはできない、と結論づけたのです。
 被爆者の運動にとって、怒りの第1の原点が、被爆だったことは言うまでもありませんが、1980年に出されたこの「答申」は、第2の原点と言えるでしょう。「すべての国民は等しく、戦争による一般の犠牲を受忍すべきであって……」という、ここに被爆者が怒ったのは当然のことです。あの原爆の被害を等しく「受忍」すべきものとは、これは一体何だと。そこがやっぱり一番大きな怒りではあったわけですけれども、もう一つ被爆者が怒ったのは、「およそ戦争という……」というところから始まる一般論です。これは、とても日本国憲法のもとで発せられたとは考え難いものでした。
 この「答申」が出された当日、被団協は声明を発表しています。声明は「答申」が原爆批判のかけらもない、原爆投下の国際法違反についての言及もまったくないものだと批判したうえで、次のように言います。「さらに答申は……一般市民の戦争被害に対して国が今日まで何らの措置も講じて来なかったことを当然視している」。これは、憲法前文の言う「国際社会において、名誉ある地位を占める」ための努力をしてこなかった国に対する痛烈な批判です。
 その意味で被爆者運動は、戦前・戦中を一貫して捉えた運動です。そして戦前が戦後の中に流れ込んでいることを非常に強く意識して繰り広げられた運動でもあります。日本国憲法ができたことによって安心するのではなくて、それを活性化していくという運動を、被爆者は苦労して作り上げてきました。
 こういった歴史認識を、私たちは大切に引き継いでいかねばならないと思います。

オルタナティブな歴史認識

 日本でもアメリカでも「主流」の歴史認識というのは、とても強い形で、そして――昨今の日本ではよくわかると思いますけれども――政治の力によって、私たちに日々伝わってくる。「こういうふうに歴史を見るのですよ」という政治の言葉が伝わってくる。私が強調したいのは、それには徹底的に抗って異議を申し立てる、そうやって、オルタナティブな歴史観というのが存在するのだということを問い続けることの重要性です。
 なぜ、そのような「勝ち目のない闘い」をつづけてゆくのか。それは、「主流」の歴史観では、必ず「リアリズム」の落とし穴に陥ってしまうからです。政治の世界はどうしても「所与」から発想します。与えられた「こうある世界」があって、そこから発想します。その結果「あるべき世界」への歩みが閉ざされてしまうことがある。
 その意味で、オバマ大統領のノーベル賞受賞演説は優れたものだったと思います。なぜかというと彼は戦争をしている自分を説明するのに、かなり苦労しているわけですね。苦労して苦労して、自分がなぜ今戦争をしている国の最高司令官であるかということを説明しているわけですが、その時に、彼は同時に、自分は「こうある世界」に生きながら、しかし「あるべき世界」というのを追求しなければいけないという、苦しい説明をしているわけです。彼はアメリカの大統領だから、苦しい説明になる。
 それに対して、私たち、―そのようなしがらみ、あるいはアメリカの大統領のような責任、あるいは政治的な束縛をうけていない人間―というのは、「こうある世界」と「あるべき世界」の間で、はるかに自由な発想ができる。そしてオルタナティブの歴史観というのを見つけ、考え、そしてそれをもって「こうある世界」に対して批判をぶつけることができる。
 「核抑止論」というのは「こうある世界」です。「核兵器のない世界」というのは「あるべき世界」です。それがどこで転換ができるのか。私は、連続性はありえないと思っています。核抑止論を維持しながら「核兵器のない世界」を構想することはできない。オバマ大統領はプラハ演説でそう謳ったわけですけれども、あれはもともとやはり無理があったというふうに私たちは感じている。でもそれは、オバマがアメリカの大統領であるが故の限界であって、私たちはその限界を超えて発想をしていくことができますし、また、していくべきなのだと思うのです。

【質疑応答】

米国における外交の民主的統制

――外交を民主的に統制することはかなり難しいと言いますか、普遍的な問題だと思うのですね。このような観点からみて、現在のアメリカがどの程度成功しているとお考えでしょうか。
西崎
 外交の民主的な統制というのは、難しい問題だと思いますね。特にアメリカでは。たとえば今年の選挙戦、大統領候補の人たちはほとんど外を見てないですね。そして人々を喜ばせる言葉を必死で探している。だからブレが激しくなる、特にこのところその傾向があると思うのです。
 オバマ大統領は、2008年に大統領選に出た時、かなり強い対話のメッセージを打ち出して、そして就任後2009年ぐらいまでそれを貫いた。それに半分の人は共鳴したと思います。しかし半分の人は強烈にそれに反発した。そのギャップをどう埋めるのかというのは、アメリカにとっては大きな問題だろうと思います。また、オバマ大統領は軍事行動しないから弱い大統領だというふうに繰り返し批判されている。このような風潮は、やはり正していかなければいけない。そうではなくて、たとえば外交での成果というのはこれだけあるのだということを語っていかなければならない。それが民主的な外交の統制の一つだろうと思うのです。そのためにはメディアの役割も重要ですし、何よりも研究者や言論人がしっかりしなければいけないと思うのです。

「同盟」という言葉の危うさ

――西崎さんはお話のタイトルに「日米関係」という言葉を使い、「日米同盟」という言葉を使われませんでしたね。実は私自身も国際政治を研究しておりますので、日米同盟という言葉は軽々しく使わないです。「同盟」という言葉の使われ方について、おそらくウィルソン外交を研究されているお立場からはご意見があると思います。伺えればありがたく思います。
西崎
 私も「日米同盟」というのは、使うときは意識して使います。戦後初めて「日米同盟」という言葉が出てきた――言い出したのは中曽根さんあたりではないでしょうか――それが衝撃的だったということを覚えていますので、それが当たり前のように使われるというのは、ちょっと困ったものだというところはあります。冷戦の初期、対ソ封じ込めの強硬派だったジョージ・ケナンは、スターリンとは妥協できないという政策を掲げた人ですけれども、同時にNATOに反対したんですね。それから日米安保にも反対した。彼はむしろ、ドイツもNATOに入るのではなくて、米ソの兵力を引き離すべきだということを言っていた。「同盟」っていうのは、私たちは当たり前のことだ、外交の一つの手段だというふうに、それこそ刷り込まれていますけれども、質問者の方が挙げたウッドロウ・ウィルソン(第28代米大統領)は、同盟こそが戦争の原因になるのだと言って、「同盟」はやめて国際連盟を作ろうと言った。
 ですから同盟が外交の手段だ、あるいは戦略の一つだということを疑問視する発想が必要だと思います。
(まとめ:ピースデポ)