【私たちはどこにいるのか】 3つの視点から「禁止条約交渉」開始の画期をとらえる 主筆 梅林宏道

公開日:2017.07.14

 核兵器禁止のプロセスが始まる。歴史的な瞬間である。この画期の意味を3つの視点から考える。1)核兵器廃絶運動からの視点、2)米国の政治からの視点、そして私たちの最大の関心である、3)日本の核兵器廃絶政策からの視点である。

核兵器廃絶運動からの視点

 このプロセスが出てきた背景にはNPT再検討プロセスの行き詰まりがある。核軍縮があまりにも遅い、核兵器の90%以上を占有している米ロの軍縮交渉の先が見えない。むしろ核保有国は核兵器の近代化に勤しんでいる。NPT再検討プロセスでの政治的誓約の言葉は少しずつ前進するのだが、その誓約は実行されそうにない。一方、NPTプロセスは、条約交渉は国連の唯一の多国間交渉の場であるジュネーブ軍縮会議(CD)に委ねるという基本構造だが、そのCDが機能しない。このような苛立たしい状況が募って新しいプロセスの必要性が認識されるに至った。
 新しいプロセスへの動きは2011年に始まった。オーストリア、メキシコ、ノルウェーが国連総会に「多国間軍縮交渉を前進させる」という決議案を提出した。総会のイニシャチブでCD懸案のテーマを前進させる作業部会を設立する案であった。しかし、CDを差しおいて交渉の場を別に作ることへの反対論が根強く、採決前に決議案はとり下げられた。そこで、12年に「多国間核軍縮交渉を前進させる」と「核軍縮」にフォーカスした決議案が提出され採択された。今回の禁止条約の交渉会議を決定した決議「71/258」も同じタイトルであることが、そのルーツを示している。一方で2010年NPT再検討会議以来、核兵器の非人道性を再焦点化する努力が始まった。12年にスイスなど16か国による共同声明発表がされる。この声明で始まる「人道イニシャチブ」は、3回の国際会議などを通して着実に支持を広げた。これらの流れが決議「71/258」に合流した。
 このプロセスの今後を担う国家主体はどのようなものになるだろうか。96年7月のICJ勧告的意見を主導したのは非同盟運動(NAM)であった。ICJは「多国間」と呼ぶに相応しい普遍性を持つ場であり、それがゆえに核兵器保有国の影響力も働いた。その結果、ICJ勧告は核兵器使用の違法性について抜け穴を残した。
 包括的核実験禁止条約(CTBT)の締結は、NAMが主導したが広範な市民運動と米政権の決断があり、核兵器国も巻き込んだ多国間交渉の勝利だった。それでも米国は批准していない。
 禁止条約交渉の今回のプロセスが、禁止の先の核兵器の全面廃棄へとつながるためには、NAM対西側諸国という構図を超えた国家主体の登場が不可欠である。1998年に新アジェンダ連合(NAC)が生まれた時の志は、そのような国家グループを目指すことであった。その意味では今回の決議主導国のなかのオーストリアやアイルランドの役割は大きいが、それだけでは不十分と思われる。日本、オランダ、スウェーデンといった国の交渉参加の意味がここにある。

米国の政治からの視点

 オバマ政権は「核兵器の役割を低減する」という範囲においては、相当努力をし、成果を挙げた。だがそのオバマ氏は、プラハ演説(09年4月)で「核兵器が存在する限り、米国はいかなる敵をも抑止できる核兵器の保有を継続する」と言わざるをえなかった。新STARTの批准は巨額の核兵器近代化予算との取引になってしまった。13年6月のベルリン演説では「正義を伴う平和」というキーワードでその限界を超えることが目指され、オバマ氏は「核兵器が存在する限り我々は真に平和ではない」と語った。しかし、同じ日に発表された米国の「核使用戦略」には冷戦時代に作られた「核の聖域」が温存されている。米国内の政治的土壌は変わっていない。
 トランプ政権がどのような路線を取るのかはまだわからないが、17年1月27日の「大統領覚書」で、国防長官に新しい核態勢の見直し(NPR)と弾道ミサイル防衛の見直し(BMDR)を指示した。NPRの目的は米国の抑止力が「近代化され、強力で、柔軟で、回復力と即応性があり、21世紀の脅威を抑止して同盟国に安心を与えるように適切に調整されたものになること」とされた。想起されるのがブッシュ-ラムズフェルドのNPR(01年)である。彼らのNPRもまた「21世紀の脅威を抑止する」と言った。それはバンカーバスターや移動標的を捉える能力など「使える核兵器」を意味した。これは結局実行されなかったが、トランプのNPRも「戦場使用できる核兵器」に傾斜する危険がある。
 私たちはアメリカ社会という大きな壁に向き合い続けることになる。

日本の核兵器政策からの視点

 94年、日本政府が提出したICJへの陳述書の要約は、「核兵器の使用は、[純粋に法的観点から言えば今日までの諸国の国家慣行や国際法学者の学説等を客観的に判断した場合、今日の実定国際法に違反するとまでは言えないが、]その絶大な破壊力、殺傷力の故に国際法の思想的基盤である人道主義の精神に合致しないものであるといえる」というものであった。陳述はつづいて核兵器が二度と使用されるようなことがあってはならない、非核三原則を堅持する、核兵器の究極的廃絶に向けて努力すると述べた。[ ]で囲った「純粋に法的観点から云々」の部分は国内での批判が沸騰したため取り下げられたとはいえ、これが日本政府の基本的見解であり、今日でも変わらない。
 94年の見解は、もう1つの基本政策である「核の傘」については述べていないが、最近のトランプ・安倍共同声明(17年2月10日)を見れば明らかだ。「核及び通常戦力の双方による、あらゆる種類の米国の軍事力を使った日本の防衛に対する米国のコミットメントは揺るぎない」とする。
 一方、北朝鮮の核問題解決の道は、北東アジア地域における「みんなの安全保障」という観点による以外にはない。日本自身が「核兵器は必要だ」と言っている限り説得力を持ち得ない。北朝鮮に対する説得力だけではない。北朝鮮はNAMの一員である。北朝鮮だけがなぜ、核をもってはいけないのか、ミサイルを撃ってはいけないのかという、小さな国々の疑問を背に北朝鮮は挑戦をつづけているという側面があることを忘れてはならない。
 我々が触れる北朝鮮情報が相当歪曲されていることも見落としてはならない。「安保理決議」は「弾道ミサイル技術を使った発射」をイランに始まって北朝鮮にも禁止している。しかし今年2月12日に北朝鮮が弾道ミサイルを発射した前後に、米国は2月8日にミニットマンミサイルを発射し、14日にはトライデント弾道ミサイルを発射している。このことは日本ではほとんど報道されない。
 公正な立場から北朝鮮に非核化を求めようと思えば、このような歪曲を正しつつ、日本自身の核の傘も論じられなければならないのは理の当然である。核兵器の法的禁止への日本の貢献は、核兵器依存から脱するという日本の安全保障政策の変革と並行して初めて可能になる。(2月25日の講演をもとに要約した。)